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歴史・文化財

上里町の中世

武蔵武士“丹党”のふるさと

 上里町には、武蔵七党の一つである丹党に属する勅使河原氏・長浜氏・安保氏が領地をかまえていました。こうした丹党の活躍は『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鑑』『太平記』などの書物の中に書かれています。

勅使河原氏関係史料

安保氏関係文書

『太平記』に見る長浜氏

神流川合戦

1.神流川合戦に至る経過

 神流川合戦は、天正10年(1582)6月18・19日(旧暦 以下同)の両日にわたって、武蔵(埼玉県・東京都及び神奈川県の一部)と上野(群馬県)国境の神流川を舞台としておこなわれた、上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いです。別名「金窪原の戦い」ともいわれ、金久保・毘沙吐周辺をその戦場として激しい戦いが繰り広げられました。
  滝川一益は(1525〜1586)は、伊勢長島城主として織田信長に仕え、天正10年3月11日、織田信長・徳川家康連合軍が天目山で甲斐の武田勝頼を滅ぼして以後、同3月23日、信濃・上野の領国支配を任され、また、関東管領として箕輪城(群馬県箕郷町)に入城しました。その後富岡・小林・高山・倉賀野・内藤・小幡・和田・由良などの上野在地武士を掌握して、5月には厩橋城(前橋市)に入城し、本格的な上野領国支配をはじめました。
神流川  北条氏は、小田原城を本城として、伊豆・武蔵の国守であり、河越合戦(川越市 天文15年(1546))において関東管領扇谷上杉氏を破り、以後武蔵国の支配を確固たるものとしていました。
旧賀美郡(上里町の領域)が北条氏の直接の支配に入ったのは、元亀3年(1573)甲相同盟(武田信玄と北条氏康との同盟)の協定によって御嶽城(神川町)が北条氏によって接収されたことによってはじまります。
  こうした中、6月2日未明、京都本能寺において、織田信長は明智光秀によって殺害されました。(本能寺の変)6月9日早飛脚によって、この報を聞いた滝川一益は、逆心明智光秀を討つため、いち早く本国伊勢にとって帰ろうとしました。
  一方北条氏直(1562〜1591)も信長殺害の報を聞いて、上野出陣の好機として決意をかため、鉢形城主北条氏邦(寄居町)を先方として、6月16日倉賀野方面に軍事行動をおこし、滝川一益の動きに呼応して、神流川(石神)に陣をはりました。これを受けた滝川一益も一益に従う上野在地武士とともに厩橋城を出発して神流川に(玉村)に対峙しました。

2.文献にみる神流川合戦

  1. 『石川忠総留書』(国立公文書館内閣文庫 所蔵) 石川忠総(1582〜1650)
  2. 『滝川一益事書』(紀氏滝川系図)
  3. 『北条記』滝川合戦事(国立公文書館内閣文庫 所蔵)
  4. 『北条五代記』北条氏直・滝川左近将監合戦之事 三浦浄心
  5. 『深谷記』(国立公文書館内閣文庫 所蔵)
  6. 『豆相記』
  7. 『鎌倉九代記』(国立公文書館内閣文庫 所蔵)
  8. 『関八州古戦録』滝川一益武蔵野合戦事
  9. 『北条氏邦感状』(国立公文書館内閣文庫 所蔵)
  10. 『某書状案』天正10年6月(松平義行氏所蔵文書)
  11. 『反町大膳助申状案』(木島文書)
    ―『上里町史』通史編 上巻所蔵文書―

3.文献にみる戦いの様子

 神流川合戦は、6月18・19日の2度にわたって行われています。初戦は、6月18日巳の刻(午前10時頃)よりはじまり、深谷・忍衆を含む鉢形城主北条氏邦(3.000人)と上野国衆(8.000人)が戦いました。この初戦では、石山大学・保坂大炊助などの武将をはじめ300騎が討たれた北条氏邦の敗北で終わりました。伝承によれば、この敗北によって金窪城が焼失したと伝えられています。
 2度目の戦いは、6月19日未明、小田原より到着した北条氏直と滝川一益による総力戦が展開されました。数万(30.000人)の北条軍に対して、半分(18.000人)程の軍勢であった滝川軍はよく戦い、前半は滝川軍優勢のうちにすすみましたが、北条軍の迂回作戦によって後方を攪乱された滝川軍は軍を乱し、倉賀野方面へ敗走しました。この乱戦の中で、滝川一益の重臣笹岡平右衛門は、敗走する上野衆を後目に旗本衆とともに北条軍の本陣をめざして進み、討ち死にをとげています。こうして、神流川合戦は、北条軍(武蔵側)勝利のうちに終りを告げました。

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