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歴史・文化財

上里町の文化

“和算”三人の和算家

今井兼庭(いまい・けんてい)(本名官蔵・かんぞう)

享保3年(1718)生〜安永9年(1780)4月23日病没63歳
 関流の和算家です。没年から逆算すると享保3年(1718)に、西金久保の農家に生まれました。本名を官蔵、赤城・兼庭は号です。
 関流算学を幸田親盈(ちかみつ 前橋市)に学び、一時前橋藩主酒井忠恭に仕えましたが、その後江戸に出て千種清右衛門という幕府代官の手代となりました。後に駿河台、に塾をひらいて関流算学を教えたと伝えられています。門人には、経世論者本多利明がいます。
 著書は70余種を数え、「明玄算法」・「探玄算法」などがあります。内出の岩田家には今でも自筆稿本がたくさん残されています。
これらの中で最も著名なものに「三斜容三円術」と呼ばれるものがあります。これは三角形内に互いに外接する三円の直径をはかる問題です。この問題はイタリアの学者マルファティが1803年に、日本では安島直円(1738〜1798)が解いていますが、兼庭の没年からするとこの二人よりも早い時期にこの問題を解いていたと思われます。
 兼庭は安永9年(1780)4月23日に病没、63歳で浅草新鳥越の理昌院に葬られました。陽雲寺の過去帳によれば法名は「信定院本来一無居士」と見えます。
(参考『数学文化史』大竹茂雄著 研成社一九八七年ほか)

安原千方(やすはら・ちかた)(本名喜八郎 きはちろう)

文化2年(1805)生〜明治16年10月没
 関流の算学者です。本名は喜八郎、後に武作と改名しています。千方・勅勝堂は号です。文化2年(1805)勅使河原の勝場に生まれました。
 算学を玉村町板井の斎藤宜長(小野栄重の門人)に学び、その子宜義から天保11年(1840)「見題」・「隠題」・「伏題」の免許三軸を受けています。
 生家の安原家には「勅勝堂翁記功之碑」が明治14年に建てられました。この碑文には「算法千題」・「圓理新新」・「数理神篇」などを著したと見えます。
 農業のかたわら算学を教え多くの門人が集まりました。千方やその門人は各地の寺社に多くの算額を奉納しています。これらの算額から関根彰信(太田市)・小暮 則道(伊香保町)・金古信重(新町)など多数の門人を見ることができます。
 千方は明治16年10月没、法名は「珠算検勝居士」勝場の安原家の墓地に葬られています。

吉沢恭周(よしざわ・きょうしゅう)(本名半右衛門 はんうえもん)

享保11年(1726)年生〜文化13年(1816)年没
関流の算学者です。本名を半右衛門といい、篤翁・恭周は号です。
 享保11年(1726)勅使河原の原に生まれました。東北大学所蔵の「諸家算題額集」に奥州二本松の算学者上野以一の門人が富岡市の貫前神社に算額を奉納しています。この門人の一人が恭周と見えます。
 天明7年(1767)に恭周の門人と小野栄重が高崎の八幡宮に算額を奉納します、しかしこの算額は風雨にさらされ見えなくなってしまいます。そこで文化7年(1810)に小野栄重が天明7年の額をおしみ門人とともにやはり八幡宮に算額を奉納しています。
 文化10年(1813)には伊勢崎市柴町の境野勝親が地元の八幡宮に恭周の門人として算額を奉納しています。この算額で小野栄重が恭周の門人であったことがわかります。
 また玉村町の箱石の和算家木暮武申の蔵書のなかに恭周自筆の「藷蕷穿塵劫記」(寛政三年の序)があり恭周の門人であったようです。恭周は埼玉県算学の開拓者であり、群馬・埼玉の算学の発展に寄与した功績は多大でした。生家の吉沢家には恭周が作成した「天球儀」・「測量器具」や多数の算学の書が残されています。
 文化13年(1816)没、法名は「天寿斎翁道算居士」、原の吉沢家の墓地に葬られています。

“剣術”奥山念流と真之真石川流

奥山念流(おくのやま・ねんりゅう)

 奥山念流は、江戸時代初期から明治・大正・昭和にかけて、上里町を中心とする旧賀美郡(現在の上里町全域及び神川町・本庄市の一部)において、さかんにおこなわれた剣術及び柔術(現在の剣道と柔道)の流派です。
 古伝書には「念龍」あるいは「念立」と、記載されています。奥山念流と称するようになったのは、江戸時代中期頃と考えられています。
 流祖は奥山念僧で、永禄3年(1560年)2月、天狗から念流の奥義を会得して一派を起こしたと伝えられています。流祖奥山念僧から金高九左衛門までは、伝書の巻末に連記されていますが、詳しいことはわかりません。(鉢形北条氏の家臣との説があります。)
 それが、天正から慶長年間頃(伝書には天正16年と記されていますが、本庄市史では慶長年間と推定しています。)に沼和田村(現本庄市)の卜部家(伝書では浦辺)に伝承され、その後、元禄の頃、根岸甚右衛門によって、矢沼九郎左衛門(勅使河原)と大畠武兵衛昌栄(神川町)に伝えられ、大畠武兵衛から坂本義右衛門(三町)に伝承されたことにより、三町・藤木戸・大御堂・三軒で奥山念流が盛んになりました。

剣術と柔術

  奥山念流は、青木常八郎光澄の頃(文化年間)以後から、剣術と柔術とに分けられて伝承されるようになりました。本来は、剣術が主流であった奥山念流が、柔術をいつからこの流派に取り入れられるようになったかはわかりませんが、青木常八郎光澄以前の資料には、柔術を稽古していたという記載がみられないため常八郎光澄が他の流派から習得し奥山念流柔術として伝えたと考えられています。
 剣術は、青木常八郎光澄から松本武兵衛峯救と関口徳治光房に、柔術は青木音吉郎光長に伝授されました。これは、青木常八郎光澄が弟子達に印可を与える前に没したため、流派の伝承がとぎれることを惜しんで、弟子達が相談してこのように相伝したと伝えられています。

真之真石川流(しんのしん いしかわりゅう)

 真之真石川流は、江戸時代後期〜明治時代にかけて児玉郡地方に波及した流派で、明治時代に刊行された『皇国武術英名録 巻之三 黒沢政衛源考清』には、「柳生流の流れをくみ、石川蔵人政春が開祖である。八幡太郎義家の三代の孫に石川武蔵守源義基という人があり、その二十三代石川信濃守の三男が石川蔵人政春である。二代は常陸国水戸藩の井上斉宮源光教が相伝され門人は数千人におよび、三代は上野国小幡藩の朝倉久馬源泰良が継ぎ、やはり数千人の門人がいた。四代を継いだのが、武蔵国児玉郡本庄宿の小林庄松天宴で、門人が数千人もあったと伝える。」と記載されています。五代は、武蔵国児玉郡七本木村(現上里町大字七本木)の木村政右衛門に受け継がれ、上里町にこの流派が広まりました。その後黒沢政八(嘉美)が六代目を襲名し、以後黒沢熊次郎(源政一 七代)、黒沢政衛(源考清 八代)へと受け継がれ、黒沢金作が九代目を襲名しました。黒沢家には、いまでも、真之真石川流に関連する「表七ケ条目録」「当流目録」「兵法十牛歌」「兵法十牛極理の巻」「当流免許目録」「起請文」などが残されています。

 

“俳句”春秋庵と太白堂

 上里町の俳詣は、本庄俳壇とのつながりの中にありました。連歌の影響を色濃く残す江戸時代の俳句は、近代の俳句とは異なり、有能な俳諧師宗匠(俳句の師匠)を中心とした結社によって行われ、いわば集団の文芸として発展しました。
 現在見られる上里町の初期の俳人は、寛延四年(1751)白井鳥酔(松露庵)の歳旦帖に、臥雪・龍中・五植(黛)、何江・孤雲・洗石(金久保)、菊路(藤木河岸)、楚江・雨坂・雨来(八町河岸)の俳号が見えます。つぎに江戸の建部涼袋の俳書「宝暦九 商北新話 後編」に爾来(示来・金久保)がいます。
 この本庄俳壇に影響をあたえた俳人に、明和八年(1771)冬、伊勢崎市に定住した俳人栗庵似鳩(りつあん じきゅう)がいます。この似鳩は高桑蘭更や与謝蕪村ら当時の高名な俳人と交流がありました。似鳩が定住して初の俳書が「麓の塵」であり、本庄俳壇に大きな影響をあたえました。
 他に、安永二年(1773)に本庄に来たといわれる高桑蘭更(たかくわ らんこう 1726〜1798)がいます。高桑蘭更(京都東山雙林寺芭蕉堂の開祖)は石川県金沢市の俳人で、蘭更の関係した俳書にも町内の俳人を見ることができます。蘭更が寛政四年に月並(毎月一定の季題を出題し、集まった作品を宗匠が採点し、返却するもので、毎回高得点作品には一枚刷りが配付された)句合をおこなっています。この中に「金クボ 花叶」が見えます。

 寛政五年には本庄の戸谷双烏が「此まこと」を刊行し俳人として知られるようになりました。双烏は戸谷半兵衛光寿で、同六年夏、江戸で春秋庵二世として活躍していた常世田長翠(とこよだ ちょうすい)が戸谷家に移住し小蓑庵をむすび、本庄の俳譜が全国に知られるようになりました。上里町内の俳人も春秋庵の系列の影響を受けています。(忍保小暮家には、春秋庵の正風俳諧伝書が残されています。)
 また、七本木の金井家「金生」(金井沖五郎)らのように、芭蕉の流れをくむと思われる俳人、江戸の太白堂狐月・閑月庵竹妓・六草庵・守月庵・秋光庵桂素などの指導を受けた俳人もいました。

“華道”正風遠州流と正風流

 上里町の華道は、正風遠州流と正風流が知られています。正風遠州流は、小堀遠州(こぼり えんしゅう)(※注1)を始祖として、貞松斎米一馬(ていしょうさい よねいちば)(※注2)が完成させました。

 正風遠州流は江戸を中心として、北関東に広く流布した流派で、上里町には、金久保伊藤家に口伝書・「正風挿花住之江」・「正風挿花岸松巻」をはじめ数多くの資料が残されています。
 一方正風流については、他地域では資料がはなく、その実態は明らかではありませんが、忍保竹内家に残された正風挿花口伝の中に、基本的な花体を示す挿図に、真・行・留の字が使われています。これは、正風遠州流独特のもので(他流派では、天・人・地)、正風流が正風遠州流の流れであることがわかります。(他にも正風遠州流の花会の記録である「はなむしろ」の中に翠松斎社中の門人四人が正風遠州流花会に参加したことが書かれています。)

 ※注1【小堀遠州】(1579〜1647)

 江戸前期の茶人・造園家。名は政一。宗甫・孤篷庵と号。近江国の人。豊臣氏および徳川氏に仕え、作事奉行・伏見奉行を勤仕。遠江守であったので遠州と称する。茶道を古田織部に学び、遠州流を創め、徳川家光の茶道師範。和歌・生花・建築・造園・茶具の選択と鑑定に秀でていた。

※注2【貞松斎米一馬】(1764〜1838)

 正風遠州流の祖 本名米沢寛篤 江戸に生まれ、春秋軒一葉の高弟岸松斎一貞に師事し、円相の中に花体をおさめる遠州正風挿花の理念と規矩を完成した。貞松斎の作品は、挿花図集の「挿花衣之香」に二〇作品が掲載されており、華麗さと力強さが一体となった作品に特徴がある。理論家としても知られ「挿花衣之香附録口伝抄」「挿花独稽古」の刊行をはじめ、「正風挿花住之江」「正風挿花岸松巻」など多数の伝書を残しています。

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